家族の絆を守るために、家族の思い出を育むために、
住まいの困りごとを解決するのが私の使命です。
矢嶋建築株式会社 代表取締役 矢嶋一也
「何のために、大工になるのだろう・・・」
幼い頃の私は、大工である父親の姿を見ながら育ち「大工」という仕事を志ましたが、高校
を卒業後、ふと自分は何のために大工になるのか? 何も考えずに大工になっていいもの
なのか? 大きな葛藤を抱えていました。
・・・突然失礼しました。
改めまして、矢嶋建築株式会社、代表取締役の矢嶋一也です。
“矢嶋建築”という屋号の元、祖父の代から引き継いで私で三代目。
私の代になって2020 年に株式会社化し、新たな一歩を踏み出しました。
家業として親子で仕事をこなしていましたが、
矢野という新たな仲間も迎え、矢嶋建築は今、生まれ変わろうとしています。
それは、地元長野に住まう方のために自分が一生涯かけて貢献できることはなにか? を
考え抜いた末の一つの結論でもあります。このページでは、そんな私が新たな一歩を踏み出
した経緯と決意を綴りました。
少々長文であること、また私ごとをツラツラと書き綴るのは誠にお恥ずかしいことではあ
りますが、お客様に矢嶋建築を、いやっ、工務店を身近に感じて欲しい、もっと気軽に声を
かけられる存在でありたいという思いからお話させていただきます。
そんな長文読んでられないよ!
という方のためにこの物語を簡単にお話させていただきます。
矢嶋一也、この物語の中で3 つの勘違いをします。
一つ、自分の本心に素直になれず、親父へ反発をしてしまう勘違い
二つ、家を建てることだけが大工のすべてであるという勘違い
・・・三つ目は、どうぞこのまま読み進めてください(笑)
家づくりにも参考になるような私の経験談も踏まえてお話させていただきますので、
最後までご覧いただければ幸いです。
大工になんかならない!
父に反発して家を飛びだした10 代の矢嶋一也の経験
冒頭申し上げました通り、
私は大工の父の背中を見て育ち「将来は大工になるんだ」そんな志をもった幼少期を過ごしました。
・・・と言っても、それ以外は何も考えていなかったですかね(笑)
長野の、この中野の大自然が好きで山へ、川へ、毎日自然と共に過ごしていました。そして
家に帰れば、家族がいました。父ちゃん、母ちゃん、ばぁちゃん。家に帰れば誰かがいて、寂しい思いをすることはありませんでした。
たくさん遊んで家族が待っている家に帰る。
今思うと、とても幸せな幼少期を過ごしていました。
しかし、10 代の私は恥ずかしながらそれがアタリマエになっていて、
高校卒業後「大工にならないか?」という父の誘いを断り、
機械加工の会社に「就職」という外に出るという道を選びました。
「大工ではない、親父とは違う道で成功するんだ!」
・・・その志は数年で後悔に変わりました。
大人のあなたならわかりますよね。そう、父親に反発したかっただけだったんです(笑)
家業を継ぎたい! 自分の本心に気づいた20 代
機械加工の仕事は順調でした。手作業は嫌いでなかったし、段取りを組むのも苦手ではなく、
時間が経つたびに任される仕事も大きくなってきていました。
そんな時、久々に父親の仕事を見る機会がありました。
お客様との会話です。
「いつもお世話になっています。その節はいい家をつくってくれてありがとう!」
お客様の笑顔とそのお客様に頼られている父親の姿を見て、凄くむず痒い想いが湧いてき
ました。
「俺も、お客様に笑顔になってもらえる仕事がしたい親父のようになりたい!」
自分の本心に気づいた瞬間でした。
しかし、自分の想いは固まったものの反発して家を出た手前、「親父の仕事を継ぎたい」と簡単に言うことはできませんでした。また、大工の世界は20 代から大工の道に進むのは遅いと言われる世界。
でも、自分の心は決まっていたので思い切って父親に相談。
「どこか、いい大工職人を紹介してくれないか」
遠回しな言い方をする私に父親は言いました。
「今から大工をやるのか・・・でも、やるんならウチでやればいい」
心のつっかえが取れた瞬間でした。
いよいよ本格的に建築の道へ。大工としてのスタートが遅れた分、20 代~30 代はとにかくがむしゃらに仕事に打ち込みました。昼は大工、夜は設計の勉強と思いつくことはすべてやりました。建築のことは何でも任せろ! 自信も生まれると頼まれる仕事も増えてきました。
プライベートでは結婚もし、子どもも生まれ、いよいよ自分の代になるという頃、私の仕事への価値観を一変させる出来事が起こったのです。
「家が安全でなくなった」震災の経験
ドーン!
2011 年3 月11 日、東日本大震災。
その翌日の未明午前4時頃、
長野県北部地震が栄村を中心とした地域を襲いました。
「家に帰れば安心できる、帰る家がある」という小さな頃から当たり前が、
至るところで失われていく様子を目の当たりにしました。
私は、建築のプロとして何かできることはないかと、
近くの村にボランティアとして出向き、
現地の家の様子、土地の様子を見て周りました。
再びそこに住める家なのか、
再建すれば住めるのか、
壊すしかないのか、
そのような状況を判断する役割を担っていました。
・・・倒壊している家を見たのははじめてでした。
写真で見るのとは違う、なんとも言えない家の姿に絶句して立ち尽くしました。
中には、これまで100 年この雪深い地域で頑張ってきた家も倒壊していました。
・・・そこに住んでいた家族はどうなったんだろう。
建築のプロとして、果たして何ができるだろうか?
家の中で楽しそうに過ごしていた様子を想像すると、涙が溢れてきました。
建築のプロとして何ができるか?
私は考え、
地震が来ても倒れない丈夫な家。
いざという時にも中いれば安心して居られる家。
快適でホッとできる場所が残る家づくりを目指し工法の研究をはじめ、「WB 工法」を取り入れました。
WB 工法は、家が丈夫なことはもちろん、特別な機械がなくても冬あたたかく夏は快適に過ごせる工法で、万が一のときにも家にいれば安心、そう確信がもてる工法。私の想いに合致する工法を手に入れたことでもう安心、そう思っていた時・・・その安心をことごとく崩す、天災が起きたのです。
それは、私が矢嶋建築の三代目として歩みはじめてちょうど10 年経った頃でした。
やりたい、でもできない、経営者としての苦悩
・・・新築こそ、最高の家づくりだ。
工法を極めてこそ、大工であり建築のプロとして進むべき道だ。
半分正解、半分間違い。
父親から矢嶋建築を引き継ぎ、自分の代になって私はある悩みに直面しました。
「家が売れない」
それは経営者としての悩みでした。
せっかく良い工法をもっていてもお客様がいないと建てられない。
下請け仕事ばかりしていては、自分のやりたい家づくりができない。
WB 工法をやっています!
世の中に様々な工法が溢れており、その違いは家を建てる人の多くは関心がない。
売れないならやりたくてもできない。
・・・この先どうなってしまうんだろう。
「何のために、大工になったんだろうか」
そんなある日。とんでもない天災が東北信地方を襲いました。
令和元年10月、
あの新幹線が水没した令和元年東日本台風(台風第19号)です。
床下と床上浸水が9100 世帯以上。死傷者も合わせて100 人を超え、
多くの家が、今後住めないという状況になりました。
家を建てるだけが大工じゃない! 助けたい人のための仕事をするんだ
・・・えらいことになった。
私は、2011年の震災の時と同様、街の復旧のために動きました。
無我夢中で目の前の困っている人を助けるために必死でした。経営だったり、工法だったりなんて考える余裕はありませんでした。
一ヶ月ほどたった頃、以前のお施主様から電話が入りました。
「浸水してしまって家に帰れない、なんとかならないだろうか」
先代からのつながりのあるお客様でしたので、なんとかしたかった。でも、ご高齢のご夫婦であること、その土地はまた豪雨により被害が出る可能性があること、何より予算がかかることが大きな壁となって立ちはだかりました。
・・・なんとかできないか。
そんな時、ある話がありました。「保険の一時金がもらえるみたい」という話でした。それは、被害にあったご家庭の生活をいち早く取り戻すべくスグにお金が入る代わりに、詳細な調査は省き、被害が目に見えてわかる部分で認定されるという話でした。
・・・それは、おかしいのではないか。
確かに一時的にお金が必要であることは確かだ。でも、その一時金では家は建て直せないし、「この土地に住みたい」というご夫婦の願いはかなわない。
・・・ご夫婦にとって最適な道はなにか?
兼ねてから本格的に学んできた火災保険の知識や、その勉強会で得た全国の建築仲間の人脈を駆使して最適な道を探しはじめた。
新築? リフォーム? そんなこと関係ない。
とにかくこの人の助かる道を見つけるんだ!
お客様を助けるために必要だったのは、腕+知識
そのお客様のためにまず私がしたのは「予算」の調達。
具体的には、保険の申請のお手伝いです。
家をしっかりと厳密に調査し、保険のルールや法律にのっとり正確に査定。
すると、一時金の約2 倍の金額が見込める可能性も出てきて、理想である建て替えが見えてきました。
次にやったのは、息子さんご夫婦の協力をお願いすること。
具体的には家づくりの打ち合わせに一緒に参加してもらいました。親のことは親同士で決めればいい、子どものことは子供同士で決めればいい、そう思う方もいるかもしれませんが私はそうは思いません。たとえ一緒に住んでいなくても、いざという時は助け合う家族です。そんな家族を守ってくれる家づくりは、世代を超えた一大事業。みんなでつくってこその家なんです。
「途中からね、子どもたちも参加してくれてとても心強かったのよ。
だからかな、新しい家には子どももよく来るようになったのよ」
と嬉しそうな奥様
「逆に子どもたちと矢嶋さんで決まったことも多いんじゃないか?」
と笑いながらご主人。
結果として、家づくりが家族の思い出となり、
それが世代をつなぐ絆となったのです。
「矢嶋さんがいたから、今の幸せがあるんです」
奥様からそう言われた時、
私は何のために大工を志したのか、答えが見えました。
大工の仕事は家をつくることだけじゃない。
家族の絆を守るために、家族の思い出を育むために、住まいの困りごとを解決することなんだ。
憧れの親父の背中。お客様に感謝され、幸せを配っている親父の背中の意味が少しわかった気がした瞬間だった。
親父から受け継いだバトンを次の世代にも
私には夢があります。
それは、じいちゃんの代から受け継がれてきたバトンを次の世代にもつなぐこと。
息子に大工になれ! と言っているわけではありません。人に役立ち、そして家族の絆を守るための仕事をするのが矢嶋建築の伝統、このバトンをしっかりと引き継いでいくことが私の夢です。
そのために私のできることは一つ。
「これからの住まいをどうしよう?」というご家族の悩みを解決する道筋を見つけること。
何かあった時、何かなくても(笑)気軽に声をかけやすい、地元地域の街のおかかえ工務店として走っていきたいと思います。
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「悩みごとを解決する」
矢嶋建築の家づくり
家が古くなってきたから何とかしたい。二世帯、三世帯同居を考えているけど何からはじめればいいの?「建て替え、リフォーム、売却、相続」この家の将来を考えたい。その悩み、解決します。
「住まう家族のために」
矢嶋の3つのお約束
1)小さな困りごと大歓迎!
2)未来を見据えた家づくりの提案
3)顔が見えるスタッフがつくる
住まう家族のために矢嶋建築のお約束をご紹介します。